独立行政法人国立病院機構 刀根山病院

文字サイズ 小 中 大

開設100周年

歴代院長のご挨拶

100周年を超えて

小倉剛1917年、当時国民病と恐れられた結核に対し、全国初の公(大阪市)立の結核療養所として設立されて以来、刀根山病院は100周年を迎えました。
その間、隔離的療養を目的に運営された時代が長く続きましたが、戦後は構内に併設された大阪市立大学の結核研究所と一体となって結核の基礎的研究が進み、その先進的な研究成果は、結核のみならず、他の感染症、免疫・アレルギー疾患の研究にも大きく貢献しました。
1951年、結核予防法が成立し化学療法や外科的治療が導入されると結核制圧に光が見え出し、1964年には整形外科、遺伝性難病である筋ジストロフィー、1983年には脳血管障害の地方基幹病院として神経内科が、それぞれ診療を開始しました。結果的に対象疾患が多様化しましたが、依然として結核同様に長期入院、高度のケアが必要な患者が多く、小生が在任した2000年前後においても、療養所の雰囲気が漂う病棟も見られました。
このような経緯は、国が定めた医療政策を忠実に、優先的に実行することを目的に運営されてきた結果でもあり、職員意識、運営面ではまだまだ「親方日の丸」的気風が残されていた様に思われました。しかし、国の財政の逼迫と共に、結核の減少と肺癌や慢性炎症性疾患の増加など、当院が専門とする診療分野でも疾病構造が大きく変化し、病院の経営に大きな影響を及ぼす時代が到来しました。私の赴任後間もなく、施設の統廃合が実行され、各施設には事業計画性制が導入され、その影響からか、経営関係会議では年度目標数値がノルマとも称され、結局は、現在の独立行政法人へと移行し、経営状態が厳しく問われるようになりました。その結果、当院では臨床研究部が整備されましたが、専門的政策医療に特化し先進的医療を開発するとの当初目標を失った施設もあります。
さらに留意すべき点は、「インフォームド コンセント」に始まった国民の医療への関心の高まりです。新しい医療技術への対応から長期化する高齢者などへのケアや地域連携医療のあり方まで、患者中心の医療を実践する姿勢が注目されています。
広く医療界に共通するこのような課題に的確に応え今後の発展を期するには、関係各位のご指導はもとより、職員の理解を欠かせませんが、刀根山病院100年の歴史には研究・臨床面でも運営面でも多くの示唆が残されているように思われます。
これまでの100年をお慶びすると共に、さらなる100年を目指す皆さんの切磋琢磨に大いに期待する次第です。

 

刀根山病院開設100周年に寄せて

名誉院長 伊藤 正巳私の在任中の平成16年4月、全国の国立病院・療養所は厚生労働省から新設の独立行政法人国立病院機構に事業管轄を移して、財政的に効率的・効果的な経営をはかることになりました。この「独法化」への移行前後は新しい制度の定着のために、あわただしい日々を過ごした思いがあります。院長として、私がとくに重視したのは職員の意識改革でした。病院はいうまでもなく多種多様な職種で構成される事業体です。しかも当時、刀根山病院は660病床を擁する大規模病院ですから、医師、看護師をはじめ職員各々の意識改革は一朝一夕に出来る事ではありません。医療の現場において職種を問わず、全ての医療者には「病める人に寄り添った医療サービスにつとめる」ことが基本であり、しかも「コスト意識をもった医療サービスであること」が大切と考えていました。
このような意識が独法化以前は希薄であったというわけではありませんが、独法化を契機に新たな職員一同の心構えにしようと思った次第です。幸い、職員一同の努力で独法化直後に予測を超える経営成績をあげて、少額ながら報奨金を全職員に分配できたことは大きな喜びでありました。独法化前にはなかった経営に関する会議が院内や近畿ブロック管内で定期的にもたれ、会議資料の財務諸表に目を通す機会もふえました。しかし、医療の現場で成果主義が強調され過ぎる傾向に若干の懸念を覚えたこともあります。医療は元来、公的であれ民間であれ、利潤追求になじむ事業ではありません。要は「赤字を安易に出さないこと」が独法化後の経営の基本ぐらいに考えていました。したがって、民間が不採算ゆえに参入しない医療分野を、国立病院機構が「政策医療」と称して、十分な経済補充なく引き受けるかぎり、構造的に健全経営は困難と思っていました。刀根山病院には赤字の「政策医療」の象徴ともいうべき結核病床がありましたが、結核の予防法、治療法の進歩により患者数が減少、次第に肺癌、慢性呼吸不全、間質性肺炎などの非結核呼吸器疾患に置き換わっていきました。 一方、神経内科が担当の神経・筋疾患は患者数そのものの増加に加え、勤勉で優秀なスタッフ陣にも恵まれて、すばらしい診療成績をあげて、病院の経営面に大いに貢献してくれました。
私は附属看護学校長も兼任していましたが、病院の独法化にともない附属看護学校も閉校になりました。運営に係る財政上の問題、看護教育の高学歴時代の到来など、いくつかの理由がありますが、要するに大型校に集約するという合理化方策によって閉校となりました。たくさんの看護職を輩出した伝統ある看護学校でした。私は節目の式辞でほぼ毎回、「看護職として経済的自立をすることは精神的自立、真の自立につながる」ことを強調しました。これからの時代、「他に依存することなく、自分の人生を切り開いて欲しい、看護師証書がその支えになる」というメッセージのつもりでした。卒業生のみなさんの今が幸多いことを祈念するばかりです。
平成18年3月、私は院長の任を解かれました。前任院長の小倉 剛先生までのアカデミックな雰囲気を色濃く漂わせた刀根山病院は独法化により、実利的な医療の場に変質していったように思います。

 

刀根山病院100周年記念に寄せて

前院長(名誉院長)神野 進大正6年9月1日に全国初の公立結核病院として創設された、当院のルーツである大阪市立刀根山療養所は、歴史的役割に起因する変遷を重ね、ここに100周年を迎えたことは慶賀するべきことであり、現に勤務する職員とともに喜びたい。
平成16年4月1日に国立医療機関は独立行政法人化(いわゆる独法化)され、国立病院機構の傘下に入ることになり、当院も独立行政法人国立病院機構刀根山病院という長い名前で呼称されることになった。100年以上の歴史を有する病院は他にもあるが、他の医療機関との統合経験もなく単一施設で100周年を迎えた当院は稀代の病院であり、それゆえ刀根山病院という呼称に親しみを感じる人が多い。独法化後に施設名変更を主張する声もあったが、万葉集に歌われた刀根山の名を惜しむ意見が大勢であったと記憶している。
当院は、呼吸器疾患(結核を含む)、神経・筋疾患(筋ジストロフィーを含む)、骨・運動器疾患の専門的な医療を行う施設であるが、刀根山病院の名を広く本邦や世界に広めたのは専門医療に基づいた研究成果の発信であった。小生は昭和58年2月1日に着任し平成22年3月末に定年退職するまで27年2ヶ月にわたり勤務したが、その間の思い出は今も脳裏を巡る。着任して2ケ月後に新設された神経内科を、筋ジストロフィー・脳血管疾患に加え神経・筋全般を診療する「新しい当院の柱」にするべく精励・邁進したものである。そのことは副院長・院長時代に骨・運動器疾患を担当する整形外科の充実にも生かされたと自負しているが、さらに本邦の医療制度を理解する基礎になったと思っている。また筋ジストロフィーに罹患し、不自由な身体と真摯に立ち向かう人々との出会いは、私に「医療の意味することは何か」を深く考える契機を与えるものであり、70歳を超える小生が今も医療実践を続ける原動力になっている。
小生は現在、38年前から居住する奈良で地域開業医として活動しているが、かつて籍を置いた者として101年目以降の当院の歩みを注視し続け、一層の発展に尽力する在籍者諸氏の活躍に期待する。

 

トップへ